寺林晁(てらばやしあきら)さんが、2022年11月28日の午後、肺炎のためにお亡くなりになったと報道がありました。
寺林晁(てらばやしあきら)さんは中森明菜さんの育ての親なんだそうです。
そんな寺林晁さんの経歴や妻や家族について調べてみたいと思います。
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寺林晁さん(中森明菜の育ての親)の経歴
#寺林晁 さんが28日午後に亡くなった。77歳だった。夕刊フジでの #中森明菜 の連載、そして、同連載の新書「#中森明菜の真実」(MdN新書)の発刊も寺林さんが背中を押してくれたものだった。入院中だった8月30日が最後の電話での会話に。新書は仮名だが、連載は実名で記してきた。※29日付夕刊フジ。 pic.twitter.com/hkDAEJVtto
— 渡邉裕二 (@yujing77) November 29, 2022
寺林晁さん、学生時代は「伝説の呼び屋」と呼ばれた神彰さんとの出会いから音楽に携わるようになり、持ち前の行動力と感性、音楽に対する情熱で洋楽・邦楽問わずヒットを生み出してきました。
晩年は「明菜をもう一度手がけたい」と話ししていたようです。
ワーナーミュージックジャパンでは、デビュー前から8年間も、中森明菜さんの制作宣伝を統括されていたようです。
中森明菜さんはガウスエンタテインメントとの間でトラブルが生じ、「業界追放」を訴えられていたにもかかわらず、
2002年に寺林晁さんが執行役員を務めていたユニバーサルミュージックと契約し、
寺林晁さんプロデュースによるカバーアルバム「歌姫」を発表。
2002年14年ぶりにNHK紅白歌合戦に再出場を遂げて「飾りじゃないのよ涙は」を熱唱しました。
中森明菜さん、残念でしょうね。
- 名前:寺林晁(てらはやしあきら)
- 生年月日:1946年2月21日
- 1972年ウドー音楽事務所入社
- 1979年:ワーナーパイオニア(株)入社
- 1994年:日本フィノグラム(株)邦楽宣伝部長(制作宣伝担当)
- 1996年:マーキュリー・ミュージックエンタテイメント(株)
- 2000年:マーキュリー・ミュージックエンタテイメント(株)代表取締役社長
- 2000年:ユニバーサルミュージック(株)キティMME執行役員会長
- Def Jam Japan エグゼクティブプロデューサーなどを兼任
- 2001年:ユニバーサルミュージック(株)執行役員マーケティングエグゼクティブ
- 2014年:ユニバーサルを退社
中森明菜さんをはじめ、矢沢永吉をはじめ、CHAGE&ASKA、少年隊、森高千里などのデビューにも尽力したようです。
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寺林晁さんの妻や子供について
【訃報】寺林 晁氏が死去 77歳、海外アーティストの招聘やワーナー、ユニバーサル、エイベックスなど数多くのレーベルで要職を歴任https://t.co/a3qrGN9yel
広報中村第4号より。マーキュリー・ミュージックエンタテインメント時代、寺林氏にお世話になっていました。 #中村一義 pic.twitter.com/NQzgathG9K
— Wataru Shimoyama (@utsuwa) November 29, 2022
寺林晁さんは中森明菜さんの育ての親と聞いて、寺林晁さん自身の妻や子供についても気になりましたが、妻や子供については公開がありません。
後日、通夜、葬儀告別式は家族葬で営まれ、お別れ会を行う予定だそうです。
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まとめ
寺林晁さんについてまとめました。
経歴をまとめますと、改めて中森明菜さんに尽力していた方なのだと。
中森明菜さんがここまで有名になったのは寺林晁さんのお陰なのですね。
私も学生の時中森明菜さんが好きすぎてよくアルバムを購入していたのですが、大人になって、大きな力で支えられてきた中森明菜さんのことを思うと、
面識はないものの切なくなったり、惜しい方が旅立ったのだと感じてしまいます。
中森明菜さんやご家族の方が一番残念でしょうね。
心よりご冥福をお祈りいたします。
本当にありがとうございました。
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