花の82年組でデビューした昭和の歌姫、中森明菜さん。
しかし経歴や学歴、その生い立ちについてはあまり知られていません。
中森明菜さんは東京都大田区生まれ、子供時代から歌手になることが夢だったそうです。
高校一年生の16歳でデビューし、明治大学付属中の高等学校を中退。
今回の記事ではその他の中森明菜さんの経歴や学歴、さらに生い立ちや歌手になった動機までしっかり調査してみました!
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中森明菜の経歴について
中森明菜「少女A」1982年7月リリース。デビュー年の3曲はいつ聴いても新鮮。 pic.twitter.com/mlyNGMDD8b
— VzClub (@vzclub) October 17, 2022
まずは中森明菜さんの経歴についてご紹介しましょう。
なんと中森明菜さんは中学生の時に二度『スター誕生』に応募していましたが、残念ながらどちらも落選。
しかし三度目の正直とばかりに高校1年生で再度応募した『スター誕生』では見事合格を勝ち取りました。
当時のスカウト数はレコード会社や芸能プロダクション、合わせて11社もあったそうです!
業界にとって中森明菜さんは驚異の逸材であったことがわかりますね。
当時それほど大きくなかった芸能事務所『研音』に所属し、研音は中森明菜さんのおかげでビルが立ったとまで言われています。
1982年デビュー
また同時契約でワーナー・パイオニアにも在籍し、1982年の16歳のとき『スローモーション』という楽曲で歌手デビューを果たします。
ちなみに『花の82年組』とは、中森明菜さんを始め小泉今日子さんや松本伊代さん、シブがき隊などたくさんのアイドルがこの1982年にデビューしたことから名付けられました。
デビューした方々は他にも大勢いらっしゃるのですが、その中でも中森明菜さんは一際目を引く存在だったと言えます。
二枚目発売「少女A」|オリコン5位
デビュー曲の『スローモーション』に続き同年に『少女A』を二枚目に発売し、なんとオリコン5位にランクイン。
『スローモーション』も有名な曲ではあるのですが、中森明菜さんが本格的にブレイクしたのはこの『少女A』がきっかけでした。
『少女A』は、アイドルといえば可愛いポップな曲が主流だった80年代には珍しい不良っぽくも少し儚さを帯びた曲なのですが、これが中森明菜さんの大人っぽいイメージにもぴったりだったのです。
しかしそんなイメージとは裏腹に、バラエティ番組出演時にはおっとりした雰囲気で女の子らしく話す姿に人気が出て、中森明菜さんは瞬く間に昭和の歌姫の座に着いたのでした。
実は中森明菜さんのデビューした1982年は、アイドルの代名詞とも言える松田聖子さんが一世風靡していた時代でもあります。
松田聖子さんの清純派イメージとは真逆の個性で人気を集めていったのが中森明菜さんだったのです。
ここでそんな中森明菜さんの代表曲を二曲紹介しましょう。
飾りじゃないのよ涙は(1984年11月14日発売)
中森明菜さんにとって10枚目のシングルとなり、井上陽水さんが作詞作曲をつとめているですが、のちに『日本の歌謡史の残る歴史的名曲』とまで言われるほど高い評価を受けた曲です。
本当はアルバム収録を予定していた曲だったのですが、スタジオに現れた井上陽水さんの希望により生演奏で中森明菜さんに歌ってもらったところ、その歌声があまりにも素晴らしくシングル化を決定したのだとか。
これまでアイドルであった中森明菜さんの前にアーティスト中森明菜の道が開拓された運命の曲であると言えますね。
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DESIRE-情熱-(1986年2月3日発売)
14枚目シングルとなったこの曲は、中森明菜さんを代表する曲の頂点に立つと言っても過言ではないほどお馴染みの一曲。
当時の批評家から『斬新』『奇抜』と評され、周囲のスタッフをも動揺させたのはその衣装です。
ボブのヘアスタイル(ウィッグ)とハイヒール、さらに『着物で歌いたい』という中森明菜さんの意向を取り入れた、和装と洋装をミックスさせた、昭和の時代には考えられないほど現代的なファッションとなっています。
1985年と1986年のレコード大賞を連続受賞
このように今の若い世代の方々も一度は耳にしたことがあるヒットソングをいくつも打ち出し、1985年と1986年のレコード大賞を連続受賞。
さらに年末にお馴染みのNHK紅白歌合戦には8回も出場するなど、多くの軌跡を残しています。
2010年芸能活動休止
いまや唯一無二の存在となった中森明菜さんですが、2010年に帯状疱疹を発症し芸能活動を一時休止。
その後2014年に活動再開し、紅白歌合戦出場で大きな話題をよんだのですが、精神的疲労や帯状疱疹の再発により引きこもり生活を送ることになります。
2016年、2017年に自分をずっと応援してくれているファンの方々と交流するためにディナーショーを開催しますが、その他の大きなイベントやテレビ出演などは控えていたようです。
2022年デビュー40周年
2022年5月にデビュー40周年を迎え、NHKにて7月に放送された『中森明菜スペシャルライブ1989リマスター版』が大きな反響を呼び高視聴率を獲得。
昭和レトロがトレンドとなっている今、中森明菜さんを支持する若者も多くなっているそうですよ。
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中森明菜の学歴は?
https://twitter.com/Dead0822/status/1581743164163231744
中森明菜さんは地元清瀬市にある清瀬市立清瀬中学校に入学し、部活は演劇部に所属します。
高校は当時芸能人ご用達で知られていた東京都私立大東学園高学に入学。
そして高1の頃に『スター誕生!』で見事合格し念願の芸能界入りを果たすのですが、芸能活動をスムーズにこなすため明治大学付属中野高等学校に転入します。
ちなみに同じ出身校である芸能人には言わずと知れたジャニーズの面々、近藤雅彦さんや西城秀樹さん、布川敏和さんを始め、観月ありささんや三田寛子さんなど豪華なメンバーが勢ぞろい!
さすが芸能人ご用達というだけあってすごい面子ですね。
しかし芸能活動があまりにも忙しくなりすぎた中森明菜さんは、明治大学付属中野高等を結果的に中退することになります。
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中森明菜の生い立ちとは?
https://twitter.com/musicsnow0922/status/1547000516630441984
中森明菜さんは東京都大田区生まれ、父と母、そして6人兄弟の三女として生を受けます。
8人家族の中森家は決して裕福な家ではありませんでしたが、中森明菜さんが生まれた後に『緑が多く環境の良いところで子供を育てたい』と、東京都の清瀬市へと移住。
中森明菜さんは子供時代から少し体が弱かったとのことなので、もしかすると中森明菜さんの身体のことを思っての引越しだったのかもしれません。
また、病弱だった中森明菜さんは学校を度々休むことはありましたが、4歳から習っていたバレエ教室は14歳まで休まずに通っていたのだとか。
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中森明菜が歌手になった動機は?
幼少期から歌手になるのが夢だったと語る中森明菜さんですが、その理由は母親の影響が大きかったそうです。
中森明菜さんの母親は歌手になるのが夢だったらしく、母親が大好きだった中森明菜さんは母親を喜ばせたいという思いで歌手になることを目指したのだとか。
ですが子供好きでもあったことから、保母さんになりたいという気持ちも持っておられたそうです。
しかし中森明菜さんがブレイクしたことをきっかけに、中森明菜さんの家族間には大きな亀裂が入ってしまったようです。
先述したように中森家はけして裕福な家柄ではなかったため、中森明菜さんがアイドルとしてブレイクし大金が舞い込むようになったことから、金銭絡みでのトラブルを抱えていたと言います。
そのことで中森明菜さん自身も疑心暗鬼となり、仕事に関する疲労だけでなく精神的負担も大きくなっていってしまったんでしょうね。
1995年に中森明菜さんが歌手を目指すきっかけとなった最愛の母親がこの世を去ってしまったのですが、中森明菜さんはこの時から他の家族とは絶縁状態となり、それは今もなお続いているそうです。
自分が夢を叶え大成したことで家族関係が悪くなり、さらにはトラブルにまで発展してしまったという話は芸能界ではたまに耳にする話ですが、やはり非常に切ない結果に思います。
ですがもし中森明菜さんの母親が歌手になることを夢見ていなかったら、また、芸能界に進むことを許してくれない家族だったら、中森明菜さんというスーパースターは生まれていなかったのは紛れもない事実なのです。
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まとめ
というわけで、今回は中森明菜さんの経歴や学歴、そして生い立ちからデビューまでを調査しお伝えしてきました。
今年2022年8月30日にTwitterを開設し活動復帰すると意志表明してくれた中森明菜さんですが、まだどことなく危うげな雰囲気はありました。
『ゆっくりになるとは思いますが』と、自身の今後の活動について語っているため、自分の体を労わりながら大好きな歌を続けていく道を選ばれたのでしょうね。
個人的にも中森明菜さんが大好きなので、また彼女の姿を目にすることが出来るならと、ファンとしては非常に嬉しい限りです。
中森明菜さんにはまだまだ元気に活躍してほしいですし、これからの活動にも注目していきたいと思います!
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