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大谷翔平の両親は元スポーツ選手!メジャーリーガーを育てた教育方針

大谷翔平の両親は元スポーツ選手!メジャーリーガーを育てた教育方針
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大谷翔平選手といえば、今や世界の野球ファンを魅了する大スター選手です。

前人未到の二刀流で、ほぼ毎日活躍が報道されています。

2022年8月9日にはベーブ・ルース以来約104年ぶりに、2桁勝利・2桁本塁打を達成し、100年にひとりの逸材といわれていますよね。

野球の成績だけでなく、誠実な人柄やストイックに努力する姿も注目されている大谷翔平選手。

そんな大谷翔平選手を育てた両親はいったいどんな人なのでしょうか。

大谷翔平選手の両親のことを調べてみました。

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大谷翔平選手の両親はどんなひと?

大谷翔平選手の家族構成

  • 父:大谷徹182cm
  • 母:大谷加代子170cm
  • 兄:大谷龍太187cm(7歳上)
  • 姉:大谷結香168cm(2歳上)
  • 大谷翔平選手:193cm

ご覧のように大谷翔平選手は両親を含めみんな高身長です。

大谷翔平さんの家族の平均身長はなんと180cm!

日本人の平均は男性で約168cm、女性で約154cmと言われているので、かなり高い一家であることがわかりますね。

父方母方の祖父もともに高身長180cmほどなんだそうですよ。

スポーツマンの両親のもとに生まれた三兄弟は小さい頃からスポーツに親しみがあったようで、大谷翔平選手も野球を始める前はスイミングやバドミントンを習っていました。

父は元野球選手で指導者

大谷翔平選手の父、大谷徹さんは1962年、岩手県上北市に生まれました。

かつては三菱重工横浜に所属していた社会人野球の選手で、現在は金ケ崎シニアの監督を務めています。

徹さんは父(大谷翔平選手から見た祖父)に勧められて野球を始めました。

中学では坊主頭になることがどうしても嫌で、陸上部に入りました。

2年生時には三種競技A(100m走、砲丸投、走高跳)で県大会で6位入賞を果たしますが、負けず嫌いな徹さんは「自分の上に5人もいる!」という事実が受け止めきれず、陸上をやめてしまいます。

2年生の途中から野球部に入った徹さんは、エース兼4番打者として活躍しました。

岩手県立黒沢尻工業高等学校に進学し甲子園を目指しますが、投手には向かなかったことから外野手に転向しました。足を生かすために左打ちに転向もしています。

すべては勝つため、甲子園出場のため。

しかし、3年間、一度も県大会を突破することは叶いませんでした。

地区予選で敗退が決まった時、精神的ダメージが大きく「もう野球をやめてしまいたい」「僅差で負けたとしても負けは負け」と投げやりになってしまったそうです。

社会人野球部のある会社から内定をもらっていたのに断ってしまった程、大きなショックだったのです。

しかし11月頃には傷も癒え「また野球をやりたい!」という思いが戻ってきました。

社会人野球部のある三菱重工横浜に入社後は、午前中はサラリーマン、午後は野球漬けの毎日でした。

徹さんは1年目で怪我をし、結局6年ほどで引退することになりました。

24歳の時、「来季は使わない」と戦力外通告を受けてしまいます。

実はこれは戦力外通告ではなく、臼井監督からの激励だったそうなのですが、負けず嫌いな徹さんは悔しさのあまりすぐに「やめます」と監督に伝えたんだとか。

結婚し故郷である岩手県に戻った徹さんは、2男1女を設けます。

大谷翔平選手が小学生時代からリトルチームの指導者として関わってきた徹さんは、野球の基礎を叩き込むことを大事にしていたそうです。

  • きれいなフォームで投げる
  • 指を引っ掛けて縦回転のいいボールを投げる
  • インコースはライト方向、アウトコースがレフト方向
  • 体を開かずに打つ

当時、自動車製造工場に勤めていた徹さんは、勤務形態が昼夜2交代制でした。

金曜日が夜勤の日は、寝ずにそのままリトルチームの土曜練習に参加したそうです。

どんなに仕事が忙しくても野球指導はおろそかにしないというのは、父の愛を感じますね!

我が子への野球指導は、熱くなったり厳しくなったりすることがありそうですが、徹さんは冷静に大谷翔平選手を指導していたようです。

野球ノートで良かったこと、悪かったこと、目標(これからの練習で「どうしていくか)などを交換日記として親子で共有していたんですよ。

母は元バドミントン選手

大谷翔平選手の母、加代子さん(旧姓・熊沢)は1963年、神奈川県横浜市に生まれました。

幼少期から運動神経の良かった加代子さんはバドミントン選手で、インターハイや国民体育大会に出場したこともあります。

バドミントン強豪校である横浜立野高校を卒業後は、社会人バドミントン部のある三菱重工横浜に入社しました。

平日の就業後に2日と土日のバドミントン練習以外は、普通のOLと変わらない生活だったそうですよ。

ここで、のちの夫となる大谷徹さんに出会います。

1年先に入社していた徹さんと職場の飲み会で意気投合し、交際がスタートしました。

夫とともに岩手県へ移り住んでからは、パートをしながら3人の子どもたちを育てています。

子育て中も趣味でバドミントンを続けていて、姉の結香さんと大谷翔平選手と3人でよくプレイしたそうです。

しっかり羽根を見て打つことや手首のスナップなど、野球に通じるものがありそうですね。スポンサーリンク

大谷翔平選手の両親の教育方針とは?

大谷翔平選手の両親はどんな教育方針で3人の子どもたちを育てたのでしょうか。

メジャーリーガー・大谷翔平を生み出した教育方針は、本人の意思を尊重すること、結果よりも過程を尊重すること、家を安らげる場にすることの3つでした。

一つずつ見ていきましょう。

本人の意思を尊重

大谷家では本人の意思を尊重し、細かいことには口を出さない方針だったそうです。

大谷翔平選手の両親は、ガミガミ叱ることはほとんどなかったといいます。

親はつい子供のすることに口を出したくなるものですよね。

宿題はしたの?」「歯を磨きなさい!」「早く寝なさい!」などなど……

大谷翔平選手の両親はいい意味で放置したのだそうです。

トマトが大の苦手だった大谷翔平選手に対して無理に食べさせることもなかったといいます。

叱責を受けてこなかったために、大谷翔平選手は穏やかな性格なのではないでしょうか。

両親は大谷翔平選手は習い事や進路などどんなことも自分で決めさせました

たとえば習っていたスイミングを辞めるといい出した時、親は「もったいない」「もう少し続けてみたら?」と言いたくなりますが、大谷翔平選手の両親は、黙って本人の意思を受け入れたのです。

どこの球団に入るのかやメジャーへの挑戦、二刀流で勝負することも、全て大谷翔平選手が決めたことです。

大谷翔平選手の両親は本人の意思や自主性を信じ「決めたことなら頑張れ!」と全力で応援してきました。

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結果よりも過程を大事に

テストで悪い点をとった、成績が振るわなかった……そんなときにも大谷翔平選手の両親は叱ることはありませんでした。

テストに向けて勉強を頑張ったことや一生懸命努力したことをしっかり認め、褒めたのだそうです。

結果ばかり見て一喜一憂することは誰にでもありますが、大事なのは過程であることを伝えたかったのでしょう。

頑張っている姿を見てもらえる、評価してもらえるというのは誰にとっても嬉しいことですよね。

次はもっとがんばろうというモチベーションにも繋がります。

家を安らげる場にする

親子でありながら、指導者と選手という関係だった大谷翔平選手と父・徹さん。

徹さんは野球を家庭に持ち込まないことを心がけていたそうです。

グラウンドでしっかり練習したあとは、家では大谷翔平選手に自主練をさせていたんだとか。

自身も怪我で苦しんだ経験から、熱血指導は怪我のおそれがあることを知っていたのです。

大谷翔平選手の両親は家族で一緒に食卓を囲むことも大事にしていました

徹さんはどんなに忙しくても、家族で夕食をとれるように早めに帰ることを心がけました。

食事は家族揃って食事をすることは信頼関係を深めるために必要だと考えたからでした。

食事をしながら一日の出来事を共有することで、子供の悩みや変化がすぐわかるようにしたのです。

母・加代子さんも、体は大きくても少食気味だった大谷翔平選手のために明るい食卓づくりを心がけたそうですよ。

休日にはホットプレートを囲み、和やかな雰囲気の中で食事を楽しんだそうです。

穏やかな環境であったためか、大谷翔平選手を含め、3人の兄弟たちには反抗期らしい反抗期もなかったんだとか。

まとめ

 

大谷翔平選手の両親についてまとめました。

恵まれた体格や運動神経の良さは、野球選手だった父・徹さんやバドミントン選手だった母・加代子さんから受け継いだものであることがわかりました。

大谷翔平選手の両親の教育方針である本人の意思を尊重するというのは大切だけど難しいことですよね。

親はつい口を出したくなったり、ガミガミ言ってしまいがちです。

それをしないで育ててきた大谷翔平選手の両親は本当にすごいですよね!

子供を信じて見守るという教育方針が、世界で戦えるスター選手を産んだのでしょう。

今後も大谷翔平選手の活躍を期待したいですね。

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